Torige Seiki

1941年 京都に生まれる

​1956年 初めて独りで比良連峰へ登山するが途中断念し、この年比良山岳会に入会し、山と社会に目が拡がり出す

1960年 松下電器照明事業部に入社

1964年 松下電器退社

1969年 遊学目的でシベリア鉄道を利用し、ヨーロッパと中近東へ出発

1970年 ガラスの勉強開始。イタリアLindo Glassy Studioにてモザイク制作を学ぶ

1978年 東京にガラススタジオ設立

1989年 東京代官山にて小型のガラス溶解炉を造りガラス制作を学びつつ制作を始める

1992年 工房経営を閉鎖し原点に還ってステンドグラス、モザイク、板ガラス等を使ったアートの世界に戻る

1995年 インドネシアのバリ島に拠点を移し、溶けたガラスによるアートの世界に再挑戦し、アジアを代表するガラス作家として、世界へ数々の作品を届けるに至る

何故ガラスの世界に入ったか

​1969年に家族を日本に残したままヨーロッパへ渡り、友人と二人でイラン南部にある磨崖碑(岩肌に彫られた彫刻)の拓本を取りに向かった。その当時はただ写真を頼りに片言のペルシャ語で何百キロのすごい田舎、山道、砂漠を走り、やっと磨崖碑に出会ったが、大きすぎてその磨崖碑の拓本取りは断念した。方針変更して、小さめの磨崖碑を見つけたが、見物人が集まってきたり、役所の人も来てしまい、中止断念。でも、その過程の中で、近くの発掘作業をしている現場を見学に行った時、運命の「ガラスモザイクの破片」と出会った。大きさ10cmほどの壁の破片。

​このガラスモザイクの破片と出会ってしまって、僕は歴史とガラスに興味を持った。

​イタリアのガラス工房にて

その後、ガラスモザイクの勉強をしたいが為、行き当たりバッタリで知人がいるわけでもないイタリアのミラノへ行き、何日もドウオモ広場の地下鉄の出入り口に座り、イタリアに慣れているなと思う日本人に出会うのを待っていた。数日後、ある日本人で同郷の京都出身の男と出会った。彼は、鍛冶屋さんになる為、ミラノに来ていて、彼の紹介でステンドグラスのLindo Glassy Studioに入社試験後、入ることとなった。本当に運が良かった。

ステンドグラスの工房が終わった後、モザイク職人のところで下働きから始めた。モザイクの方が、ステンドグラスより繊細だから、僕にとってはモザイクの方が好きな仕事になった。

​ガラスと光

​まず、ガラス造りは誰でも簡単に入って得られる技術ではないこと、簡単な材料ではないこと、それらを使いこなす面白さが好きだ。ガラスは当時、新しい世界だった。ステンドグラスはデザインという言葉ではなく図案という言葉の世界だったし、ガラスを溶解してガラス器を造る世界は当時市民権もない世界だったので、僕にとっては丁度良かった。また、ガラスと光の関係があるからガラスが好きだ。使わないガラスを普段その辺に置く時でも、僕は必ず凄く光を意識しているんだ。

​影響を受けた芸術家

自分の作風で影響を受けた芸術家は特にいないが、唯一、開高健が人生で影響を受けた人だと言いたい。彼はノートルダム大聖堂のステンドグラスは何故美しいのかを少ない言葉で射抜いていて、見事だと思った。彼の随筆の「白昼の白想」の中の「透明な混乱」という言葉に救われた。僕は今でもこの彼の言葉で沢山のイメージが湧いてくる。

​鳥毛の想う代表作品と夢

やはり1983年の”Fragile Art Competition83"のグランプリ受賞作の「Pyramid Decoration」、そして長い年月をかけて完成させた「Glass House」。他にはHotel Rimba Jimbaranの壁面、オリンピック選手村の装飾があえていうのであれば代表作。でも、全てに情熱を注いで作品造りをして来たので、本当は全てと言いたい。情熱と夢はいっぱいある。ベトナムに行って竹と漆の家具を造りたい。絶対きれいなものを作らないと生きている意味がない。

Torige Seiki

Torige photo B&W.jpg

1941年 京都に生まれる

​1956年 初めて独りで比良連峰へ登山するが途中断念し、この年比良山岳会に入会し、山を通じて社会の本質を理解し始める

1960年 松下電器照明事業部に入社

1964年 松下電器退社

1969年 遊学目的でシベリア鉄道を利用し、ヨーロッパと中近東へ出発

1970年 ガラスの勉強開始。イタリアLindo Glassy Studioにてステンドグラス制作を学ぶ

1978年 東京にガラススタジオ設立

1989年 東京代官山にて小型のガラス溶解炉を造りガラス制作を学びつつ制作を始める

1992年 工房経営を閉鎖し原点に還ってステンドグラス、モザイク、板ガラス等を使ったアートの世界に戻る

1995年 インドネシアのバリ島に拠点を移し、溶けたガラスによるアートの世界に再挑戦し、アジアを代表するガラス作家として、世界へ数々の作品を届け現在もバリ島にて精力的に活動中。

何故ガラスの世界に入ったか

​1969年に家族を日本に残したままヨーロッパへ渡り、友人と二人でイラン南部にある磨崖碑(岩肌に彫られた彫刻)の拓本を取りに向かった。その当時はただ写真を頼りに片言のペルシャ語で何百キロのすごい田舎、山道、砂漠を走り、やっと磨崖碑に出会ったが、大きすぎてその磨崖碑の拓本取りは断念した。方針変更して、小さめの磨崖碑を見つけたが、見物人が集まってきたり、役所の人も来てしまい、中止断念。でも、その過程の中で、近くの発掘作業をしている現場を見学に行った時、運命の「ガラスモザイクの破片」と出会った。大きさ10cmほどの壁の破片。

このガラスモザイクの破片と出会ってしまって、僕は歴史とガラスに興味を持った。

​イタリアのガラス工房にて

その後、ガラスモザイクの勉強をしたいが為、行き当たりバッタリで知人がいるわけでもないイタリアのミラノへ行き、何日もドウオモ広場の地下鉄の出入り口に座り、イタリアに慣れているなと思う日本人に出会うのを待っていた。数日後、ある日本人で同郷の京都出身の男と出会った。彼は、鍛冶屋さんになる為、ミラノに来ていて、彼の紹介でステンドグラスのLindo Glassy Studioに入社試験後、入ることとなった。本当に運が良かった。

ステンドグラスの工房の仕事が終わった後、モザイク職人のところで下働きから始めた。モザイクの方が、ステンドグラスより繊細だから、僕にとってはモザイクの方が好きな仕事になった。

​ガラスと光

​まず、ガラス造りは誰でも簡単に入って習得できる技術ではないこと、簡単な材料ではないこと、それらを使いこなす面白さが好きだ。ガラスは僕が始めた当時、新しい世界だった。ステンドグラスはデザインという言葉ではなく図案という言葉の世界だったし、ガラスを溶解してガラス器を造る世界は当時市民権もない世界だったので、僕にとっては丁度良かった。また、ガラスと光の関係があるからガラスが好きだ。使わないガラスを普段その辺に置く時でも、僕は必ず凄く光を意識しているんだ。

​影響を受けた芸術家

自分の作風で影響を受けた芸術家は特にいないが、唯一、開高健が人生で影響を受けた人だと言いたい。彼はノートルダム大聖堂のステンドグラスは何故美しいのかを少ない言葉で射抜いていて、見事だと思った。彼の随筆の「白昼の白想」の中の「透明な混乱」という言葉に救われた。僕は今でもこの彼の言葉で沢山のイメージが湧いてくる。

​鳥毛の想う代表作品と夢

やはり1983年の”Fragile Art Competition 83"のグランプリ受賞作の「Pyramid Decoration」、そして長い年月をかけて完成させた「Glass House」。他にはHotel Rimba Jimbaranの壁面、オリンピック選手村の装飾があえていうのであれば代表作。でも、全てに情熱を注いで作品造りをして来たので、本当は全てと言いたい。情熱と夢はいっぱいある。ベトナムに行って竹と漆の家具を造りたい。絶対きれいなものを作らないと生きている意味がない。